亀山という土地にきて私は生きること、生活することが愉しく、幸せである。

生活でいうと、草木染めをして衣を仕立て、

畑で野菜やハーブ、藍を育て、家の改装を自分でして、

料理をして生きています。

先日は、ノミの使い方、電気ノコギリを覚え、竹小舞をしていた。

ユンボは修理を二度もしたしおかげで愛も芽生えた。

500キロもあるユンボは油断をすると振り落とされそうになる。

根っこが深い木など持ち上げる反動で機体がかなり揺れる。

心のなかで私はこのユンボと友達にならなくちゃ、

信じるから信じて。

みたいな信頼みたいなものが機械にもあると少し信じている。

毎日使うミシン油差しをサボれば不機嫌になる。

車もそう、

気持ちが伝わると思っている。

そんなユンボとも別れを告げ、

今日は耕運機が相棒だ。

友人に、新しい百姓だと言われた

。新百姓から引用、「百姓」は今日ではたんに農民を意味する言葉ではない。百姓はあらゆる生活のノウハウのことを意味していて、できるだけたくさんのそれらのノウハウに通暁した生活人を、新しい意味で「百姓」と呼ぼうというのが今日の流れである。

(創刊によせて/中沢新一)

百姓と名乗るには今までの百姓に申し訳が立たないので、”生きるための全ての力を持つ女性になりたい”と答えた。

着ている服、食べているおにぎり、見ている景色

どこから来ているか、何でできているか、知りたくなったのだ。

そしてこの手でつくってみたい。

自分ならできると思った。

こうしてつくる歓びを獲得したのだ。

友人家族とご飯を食べたとき、一歳の娘は水に夢中だった。

コップに氷が二つ、飲みたい一心で顔を突っ込む、

飲めない、触ってみる、

氷を丁寧にすくい出す、どんどん溶けてく、

手冷たいと笑顔、飲んで冷たいしかめっ面、

きれいな水に魅せられて、永遠と遊ぶ姿を、

この心を忘れるな。と。

当たり前に蛇口から出てくる水、海という水、

湧いてくる水この先知る喜びとともに、つくる歓びを得ること。

この身震いするような感動をどうか分かって。